2011年11月28日(月): ひらげ日記
明治学院非常勤後期第十回目。「アメリカ文学入門」は先週に引き続き、デミ・ムーア主演の映画『スカーレット・レター』を見た。この映画はやはり、原作とは似て非なるものだ。原作では「逃げましょう」と言い続けていたヘスター・プリンが最後の最後になって自分を苛め抜いたコミュニティに帰ってくる。映画はまるで逆。抑圧的なコミュニティに残って闘いつづけると言っていたヘスターが、自分の罪が許されたとたん、その地を後にする。それにしても、ホーソンはなぜ不倫をテーマに選んだのだろう。自分の先祖が魔女裁判に関わっていたことに拘っていたホーソンが、ピューリタン社会の閉鎖性を描きたかったのなら、罪なく裁かれる「魔女」を主人公にしたほうがわかりやすかったはずである(ちょうど、映画にお� ��るヒビンズおばさんがそうであるように)。不倫がテーマになることによって、裁くコミュニティの側の抑圧だけでなく、裁かれるヘスターの罪にも焦点があてられる。唐突な例だが、スパイク・リー監督の映画『ジャングル・フィーバー』を思い出す。人種間結婚をテーマにしたこの映画のなかで、白人女性と愛しあう黒人男性にはパートナーがいる。つまり、二人は不倫関係にあり、物語は「人種を超えて愛しあう二人=善、偏見にこりかたまったコミュニティ=悪」という単純な図式には回収できない。ホーソンもまた、「ヘスター=善、閉鎖的なコミュニティ=悪」という図式を避けるために、ヘスターに不倫という罪を負わせたのではないか。
「アメリカ文化研究(アフリカ系アメリカ人の歴史と文化」では、前回言及したマーティン・ルーサー・キングのベトナム戦争反対表明を受けて、ウッドストック・フェスティバルにおけるジミ・ヘンドリックス「アメリカ国歌」の映像を見たあと、マルコムXの思想について、キング師と比較しながら概説した。
今日、最初に見てもらったのは、1969年、ウッドストックで行われたフェスティバルで、有名なロック・ギターリストのジミ・ヘンドリックスが「アメリカ国歌」を演奏するシーンです。高らかにはじまった国歌のメロディーがやがて爆音に変わっていく。ひゅーーーーずどどどーーん。ひんわんひんわんひんわんひゅーずどおおおおん。口真似してみましたが(笑)。これ、何を表しているかわかるかな。爆撃音・・・アメリカ軍による空爆の音だね。当時ベトナムでは戦争が行われていて、アメリカ軍が「ベトコン」と呼ばれるゲリラを殺すために、爆弾をばらまいていた。もちろん、ゲリラだけじゃなくて、一般の人たちも大勢犠牲になる。イラク戦争でもアフガン戦争でもそうだけど、ゲリラと一般の人の区別なんかつかない。ゲ リラを掃討しようとしたら、無差別大量殺戮にならざるを得ないんだ。こうした戦争の悲惨な現実がテレビで放映されたこともあって、アメリカ国民もベトナム戦争に疑問を抱きはじめる。特に実際に戦争に行くかもしれない若い人たちには、大義のない戦争に怒りを感じる人が多かったみたいだね。そんななか、キング師がベトナム戦争反対を表明したことは前回話したね。ジミヘンの演奏はそんな戦争に対する怒りを表現したものだと言える。ギターでこんなことが表現できるのは、ジミヘンぐらいだろうね。まあ、口真似だったら、ぼくがいるけど(笑)。
メグ·ライアンスリラー"ですか?"
さて、前回のマーティン・ルーサー・キングに続いて、今回はもう一人の公民権運動家マルコムXについて話したいと思います。実際にどれほど対立点があったかは別にして、二人を比較してみると、いろいろなことが見えてきます。まず、キング師は黒人としては比較的裕福な家庭の出身でした。一方、マルコムは子供のころにお父さんを失くし ― KKKに殺された疑いが強い ― 貧困のなかで育ちました。キング師は大学院で神学を学ぶエリートでしたが、マルコムはナンバー賭博や泥棒に手を染めるハスラーでした。公民権運動家としても、キング師が南部を中心に活動していたのに対し、マルコムの活動拠点は主に北部でした。非暴力、人種融和を唱えたキング師に対し、マルコムは自衛のための暴力を肯定し、分離主義を唱えました(マルコムが肯定したのはあくまでも自衛のための暴力であって、実際にマルコムの一派が暴力的なやり方で事態を動かそうとしたことは一度もないんだけどね)。キング師もマルコムも人生の終盤に大きな転換を遂げます。キング師については、制度的な差別撤廃から貧困撲滅へとその軸足を移したこと、また(それと関連して)ベトナム戦争反対を表明したことについて、前� ��述べました。マルコムXの思想も、彼が暗殺によって悲劇的な死を迎える直前に大きく変化します。それはキング師の思想に近づいたとも言えるし、そうではない部分もある。また、ある意味では、キング師の思想がマルコムに近づいたとも言えるのです。そのへん、二人を比較しながら、マルコムXの考え方について見てみましょう。
マルコムXことマルコム・リトルは1925年、ネブラスカ州オマハに生まれました。お父さんはバプティスト派の牧師で、マーカス・ガーヴェイの信奉者でもありました。以前、紹介したように、ジャマイカ出身のガーヴェイは「アフリカ人のためのアフリカ」を唱え、アフリカ帰還運動を推し進めて、比較的貧しいアフリカ系アメリカ人の支持を集めていました。そんなガーヴェイの影響を受けて、マルコムの父アール・リトルは、説教台からアフリカ人としての誇りを訴えたのです。そんな人物がKKKに目をつけられないわけがない。マルコムの父は不審な死を遂げます。自殺ということになってるんだけどね。頭を後ろから殴られた状態で、線路のうえに転がっているところを電車に轢かれたわけ。そんな自殺ってある?自分で後頭 部をぶっ叩いて、線路に寝そべるの?
父の死後、母親が一人で子供たちを育てることは不可能と判断した当局によって、マルコムは白人の家庭に里子に出される。学校にも通わせてもらったんだけど、白人ばっかりの生徒のなかでひとり黒人、まるでペットのような扱いだった。それでも、マルコムはよく勉強して、成績もよかったし、学級委員だってやった。ところが、マルコムが将来のことを先生に相談しに行った時のことだ。
の膜勝利ガイドを勉強します
「マルコム、きみは将来何になりたいのかね」
「先生、ぼく弁護士になりたいです!」
「・・・あー・・・んー・・・マルコム・・・弁護士は無理だな」
「なぜですか、先生。ぼく、成績もいいし、学級委員だってやりました」
「いいか、マルコム、きみはニグロだ。弁護士はニグロにとって現実的な選択ではない」
「・・・」
「そうだ、大工がいい。イエスも大工だった。イエス様と同じ仕事だぞ。きみは手先が器用だし、みんなにも好かれている。きっとうまくいくさ!」
こんなことがあったら、ぼくでもぐれるね。実際、マルコムは大いにぐれてしまった。気がつくと、ハスラー(ちんぴら)になって、ナンバー賭博の使い走りをしたり、窃盗を働いたりするようになっていた。1946年、強盗罪でついに実刑判決を受ける。そして、服役した刑務所で、運命の出会いが待っていた。囚人のなかにネイション・オヴ・イスラム ― 黒人のイスラム教団 ― の信者がいたんだ。
ところで、マルコムXって変な名前だね。エックスなんて名前の人、普通いないよね?バンドならあったけど。さっき言ったように、マルコムXはもともとマルコム・リトルっていう名前だったんだ。じゃあ、なんでXになったか。そこにネイション・オヴ・イスラムの教えが関係している。アフリカ系アメリカ人の姓っていうのは、奴隷時代の主人の名前だ。奴隷制時代なら、マルコム・リトルっていうのは、リトルさんの農場の奴隷マルコムっていうことだ。前期からこの授業を取ってくれている人は、『ルーツ』でクンタ・キンテが「トビー」という与えられた名前を拒否する場面を覚えているでしょう。あの場合はファースト・ネームだけどね。姓の場合は、奴隷が売られて主人が変われば、名前も変わる。マルコム・リトルも� ��ョンソンさんの農場に売られていけば、マルコム・ジョンソンになる。奴隷たちのアイデンティティは不安定なものにならざるを得ないよね。ネイション・オヴ・イスラムの教祖イライジャ・ムハメッドは、そんな奴隷の主人からもらった名前は捨てようと言ったんだ。でも、先祖がアフリカにいたころの名前もわからないから、未知数を表すXにしようと。しかるべきときに、教祖様がしかるべき名前を与える。それまではXにしよう。ボクサーのモハメッド・アリなんかもね、もともとはカシアス・クレイって言ったんだけど、ネイション・オヴ・イスラムに入信してカシアスXになった。そのあと、預言者の名前をいただいて、モハメッド・アリと名のるようになったんだ。
私はあなたが去年の夏の予告編をやったこと知っている
さて、ネイション・オヴ・イスラムに入信して、「マルコムX」となったマルコムは、教団内でめきめきと頭角を現していく。演説が上手かったからね。マルコムの演説はキング師とはちょっと違う。キング師の演説は聖書からの引用をちりばめて、同じ言葉を何度もくり返しながら聴衆を高揚させていく。まんま、黒人教会の説教だね。マルコムXの演説はスタンダップ・コメディに近い。理路整然と話を進めながら、ところどころに辛辣なユーモアを入れて聴衆の笑いを誘う。こうした能力が認められて、54年にはニューヨーク寺院の牧師に任命されるなどして、マルコムは教団のスポークスマンとみなされるようになっていく。ところが、これが教祖イライジャ・ムハメッドを含む教団幹部にとっては面白くなかったんだな。やっ� �みの声も聞かれるようになってくる。さらに教祖が複数の女性信者に子供を産ませて、教団から放り出したことが明らかになって、マルコムのほうも教団に対する不信をつのらせていく。63年にはケネディ暗殺について、「鶏がねぐらに帰っただけだ」とした発言が問題になって、マルコムは謹慎処分を受ける。おそらく、このことが引き金になって、マルコムは急速に教団から離れていく。64年にメッカを巡礼したマルコムはそこで、大きな思想的転換を遂げる ― これについては後で詳しく説明します。帰国後、ネイション・オヴ・イスラムを脱退して、「アフリカ系アメリカ人統一機構」を結成。ネイション・オヴ・イスラムとの緊張関係のなか、新しい活動に踏み出そうとしていた矢先の1965年2月21日、ニューヨークのオーデュボン・ボールルームで演説中に銃弾に倒れた。
さて、そんなマルコムの人生については、今日の後半から見る映画で確認してもらうとして、アフリカ系アメリカ人の未来についてマルコムはどんなビジョンを持っていたのかということについて考えてみたいと思う。最初にいったように、キング師が白人も黒人もひとつの国で仲良くやっていこう、そのためにはジム・クロウ法なんてものはなくして、人種の壁を取り払おう・・・って人種融和を訴えたのに対して、マルコムはいや、もう白人とはいっしょにやっていられない、別々の道を歩むべきだ・・・と分離主義を唱えた。ここにはふたりの考え方の違いがある。キング師はね、まず現状を何とかしようとする。歴史的に見て何が間違っているかとか、どちらが悪いのかとか、そういうこともある。でも、それよりもまず、現状� ��平和に暮らしていくためにはどうしたらいいのか・・・と考える。ところがね、マルコムは違う。彼は根本的に何が間違ってこんなことになってしまったのか、そこをはっきりさせなければならないって言うんだ。キング師をリベラルとするなら、マルコムはラディカルと言えるかもしれない。「ラディカル」って言葉はよく「過激」って訳されるけど、本当は「根本的」って意味だからね。もちろん、キング師にもラディカルな一面はあるけど、マルコムはそれを隠さずに言葉にしてしまう。そして、黒人たちに「あなたがたは元奴隷だ」と語りかける。「あなたがたはメイフラワー号でここにやってきたのではない。奴隷船でやってきたのだ。馬や牛や鶏のように、鎖につながれて。そう、メイフラワー号でやってきた人たちによっ� �、ここに連れてこられたのだ」(1965年11月の演説)ってね。受け入れたくない現実かもしれないけれども、ここから出発するしかない。そのことを直視することによってはじめて、アフリカ系アメリカ人は誇りを取り戻すことができる・・・そう考えたんだな。
でも、そんなこと言っても、アメリカでは白人が多数派なんだから、しょうがないじゃないか。白人と仲良くやっていくしかないでしょ?っていう考え方もある。キング師の人種融和っていうのにも、そういう面があるね。現実を考えたら、白人と手を取り合っていくしかない。実際、マルコムXはキング師が築きあげたような成果を何一つ残していないじゃないか、と非難する人たちもいるね。それもまあ、間違ってはいない。でも、マルコムもアフリカ系アメリカ人の未来についてビジョンがなかったわけじゃない。世界的に見たら、黒人は少数派じゃないってマルコムはいうんだ。1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)を例にあげて、マルコムは「黒人」の団結を訴える。ここで「黒人」というのは、アフリカ系アメリカ 人だけのことじゃない。植民地支配を受けてきたアジアやアフリカのすべての国の人びとを含めて「黒人」と呼んでいる。こうしたグローバルな広がりのなかで捉えれば、黒人は少数派ではない。アフリカの年と言われた60年を境にして、次々とアフリカに独立国家が誕生したこともマルコムを勇気づけた。実際、マルコムはアフリカ諸国を歴訪したり、「黒人」の国ぐにが代表を送り出すようになった国連にアメリカの人種差別を訴えることを考えたりするようになる。ただし、事態はマルコムが期待したほどうまくはいかなかった。それは・・・アフリカの国も腐敗するからね。アフリカの腐敗した政治家が、欧米の黒幕とつるんで甘い汁を吸うようになった。そうなると、「黒人の団結」どころじゃなくなってくるね。
ともかく、マルコムにはマルコムのビジョンがあった。一方で、マルコムの思想がメッカの巡礼を境にして、大きく変わったことも確かです。彼はそこであらゆる種類の肌の色をしたイスラム教徒が兄弟として慈しみあっているのを目の当たりにします。そこでは、「白人」というのは、「単に肌の色が白いこと」を意味するにすぎない。「白人は悪魔だ」というイライジャ・ムハメッドの教えを信じてきたマルコムにとっては、「白人」と人間同士のつきあいができるなんて信じがたいことだったんだね。ただね、これをもってマルコムは最後に自分の考えを捨てて、キング師の考えに同調した・・・とか言う人がいるけど、それは違うね。メッカにおける白人の話をしたすぐ後に、マルコムはこう付け加えるのを忘れない。「ここア� �リカの白人が『私は白人だ』と言った場合、彼は別の意味をこめて言っているのです。彼の声の響きに耳をそばだててみてください。彼が『私は白人だ』と言うと、それは『私はボスだ』という意味です」(1965年2月の演説)。アメリカにおいては「白人」であることが特別な意味を持ってしまうこと、そのラディカルな事実を抜きにして、人種融和を訴えても意味がないということをマルコムは指摘している。また、自衛のための暴力も否定していない。マルコムはある意味でキング師に近づいたとはいえるだろうけど、完全に同調したわけではない。逆に、晩年、差別制度を撤廃するだけではだめだということを強調するようになったキング師は、マルコムのラディカルな立場に近づいたとも言える。もちろん、暴力を否定するキング� ��がマルコムに完全に同調することもなかったけどね。
今回はこのあと、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』(1992)を見はじめた。最初の15分ほどを見たところで、タイムアウト。
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